これは、2011/03/11当日の私の体験
+その後数カ月の様子を私がまだ、覚えている2014年3月に書いた文章です。

被災の被害者って本当にたくさんいると思います。
恐らく日本人全員が被害者といってもいいと思います。
私は、この経験がなかったら恐らく、鹿嶋市の地域おこし協力隊にはなってなかったです。

(専門学生の頃に書いた文章です。文章力がなくスミマセン。あと、無駄に長いです)




...

①当日

2011/03/11
あの日は高校入試の採点日だったようで、福島県内の高校は大体休みでした。

もちろん私の通っていた工業高校も学校自体は休みでした。
しかし、大半の学校は部活動が可能でした。
私の学校も午後からは校舎以外の場所での部活が可能でした。
私は吹奏楽部でした。
卒業式の練習のために、校舎の近くの合宿施設に楽器が置いてありました。

しかし、その日私は部活を休みました。
私の家から高校までは片道2時間ほどかかります。
そのため、短い時間の練習には出ていませんでした。(練習自体は3時間ほど)

家にいたあたしはコタツに入っていました。


14:46 地震が襲いました。
カタカタと揺れ出す食器、一瞬で強さは最大になりガシャンガシャンといたるところで落ちてくる音割れる音がしました。
裸足のまま外に行ったんでました。
周りの家の方々もおどおど

電話もメールも繋がらない、家族も友達も先生も。。。
しまいに電気はとおらない、火もつかない、かろうじて水道は私の住む村だけ大丈夫でした。

妹たちはパパに連れられて無事帰宅、2階はぐしゃぐしゃでしたが、何とか入れるほど。
ママが牛丼屋さんに1時間並んで買えた温かいご飯をろうそくの小さな光の元で食べました。
きっとどんな夜より早くに布団に入りました。
続く余震、眠れない夜、月明かり、、、

黒く張り詰めた雲、地割れが起きた道路、交通規制が出来ない信号機、立ち往生する車たち、電気もない寒い夜、多くの人は暖を取るため車の中で一夜を過ごしたそうです。

②翌日
一軒家だった家は、朝見るとヒビが入っていました。
お風呂が使えない、ご飯もない、なんとかあるものを使い、ご飯をしのぎました。
携帯はなかなか使えないものの、テレビはかろうじて次の日?辺りに見れました。

そうすると、、、
「原子力発電、水素爆発、炉心融解」
そんなことが騒がれるようになりました。
ガムテープで家の窓全部の目張りをし、家には出ない日々が続きました。

③数日後

震災から5日くらいして、大きなスーパーに寄ってみました。
開店前から列ができ、青空市場のように日用品が並んでいました。
この頃は大体の水道、電気、ガスが通り、即席の麺類やご飯、餅などが食べれるようになってきていました。
携帯もだいたい使えてきて、転々としてる避難者がうちの高校に避難していることも知りました。
電車が動くようになり、私はそんな避難者がいる高校へ炊き出しの手伝いにいこうか
そう考えていましたが、現実的には、私は参加できませんでした。
この時の無力感、これこそが私が今、鹿嶋市で協力隊として仕事をしていることにつながっています。

形態が使えるようになり、部活の友人とも連絡を取れるようになりました。
友達に聞いた話に、とても驚愕しました。

北工は工業高校なため、いろんな学科の道具や部品、機械がおいてあります。
中でも私の学科である化学工学科は名前の通り化学実験を主に行う学科です。
ここまで話すと察しがつくかもしれません。

薬品保管庫等のある実験棟は、立ち入り禁止。
有毒なものも実験では扱います。ガラスの器具もどの学校より多いです。
揺れで倒れた薬品たちが互いに混ざり合いガスが発生し化学科の校舎は立ち入り禁止になったそうです。
高校に部活で行っていた人たちの話によると、校内のガラスは割れ、グランドもボコボコになったとか。
近くの学校は、崩壊したり。

私の住む村は、その学校の中でも最も原発に近く、半径40キロってとこでした。
一時的に危険区域になるかどうかというところでした。
高校時代はあらゆる検査や調査のために、学校を休んだり、時には病院にも行きました。

 

④高校再開

高校が再開したのは3週間後ほどでした。
何とか卒業式をしました。

なんといっても思いで深いのは。
 高校に避難していた方々の仮説住宅への移動前日、吹奏楽部で演奏会をやったことです。
がんばって行きましょうという意味を込めて演奏しました。

みなさんが拍手と涙を浮かべ、ありがとう、ありがとうって言ってくださるのです。
こんなことしかできないけれど。
私たちより辛い人たちがいるんだ。
これからが大変なんだって。
思い知りました。
あの日の胸の痛みを私はきっと忘れません。

➄サテライトと友達

しばらくして、私の学校に、避難区域の工業高校の生徒がサテライトしてきました。
小さなクラスをつくって、普通の授業や実習を行いました。
吹奏楽部にその中の一人が自分の楽器をもって入部してきました。
彼はとても上手なトランペット吹でした。
彼は学校も北工に編入し、最終的には北工の一員となりました。

また、特別な出会いもありました。

サテライトの学校の中の唯一の女子、さくらちゃんと友達になれたことです。
彼女とはすれ違った時に話しかけて、一緒にご飯を食べたり地元の話をしたりしました。
さくらちゃんは数か月後、別な学校に行ってしまいましたが、最後まで仲良く、常に笑顔。
そして、私の前で辛いんだ、苦しいんだと涙を見せることもありました。

 「友達と離れ離れになってしまったけれどユウナちゃんと出会えて、最高に嬉しかった」


⑥続く被害

震災による被害は甚大なものでした。私の進路にも大きな影響を与えました。

個人に渡された、放射能測定器。
福島と言われるだけで、食べれなくなった作物。
大好きだった、村のお米に変わって、一年間食べていたのは、支給されたお米、
全然粒が違って口に入れるのも億劫でした。
(そんなこと本当は言ってはいけないんですけど。。食べれるだけ良いですもんね)

大好きな食べ物が食べれない。
私の家の近くにもお米の放射線量の測定検査場が作られた。
ママは関係会社だったため毎日残業だった。
妹の友達は、放射能が怖いから県外に避難をした。
変わっていく生活。  変わっていく人の流れ。  変わっていく時間のながれ。
 

一年もすると、学校はきれいに治っていた。

学校の授業の進め方も変わった。
私の学科は、化学工学だから、放射性物質について、半年近く勉強した。
本当ならば、1年後にさらっとやるような内容だった。
難しいけれども、自分の身に起きている出来事だからみんな一生勉強した。


➆復興へ
震災の年、全国高等学校文化祭が福島で行われたことを、知っているだろうか、、、

これは、狙ったわけではなく、もともと日程が決まっていたのだった。
やらないことも考えた、各地の祭り事は自粛傾向にあり、運動会や花見なども自粛されていた。
そのため、やらない傾向であった、が、私たちは、諦めなかった。
なぜなら、その前の年、宮崎で行われた文化祭にPR活動として、マーチングを披露していたのだ。

絶対やるぞ、やらないなんて、復興でもなんでもない。
来たくない人は来なければいい。
それでも、少しでも力になってくれるのであれば、ぜひ、その文化交流をして欲しいと。

日程が大幅に変更になってはいたが、文化祭は無事成功。


きっと私たちはまえを向いていられるんだ。

世界の人達よ、私は福島県出身だよ。
検査もして、一生懸命生きて。それでも、
それでも、
まだまだ復興はできていない。



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以上です。。


重たくなってしまいました。。。汗

あの日の記憶は恐らく私の中でも風化されて、美化されている部分は多い
でも
2014年に書かれた文章です。今よりはリアルな自信があります。

これからもきっと
日本にいる限り地震等被害は免れないでしょう。

でもそのたびに、ちゃんと立ち上がらないといけません。
助け合わなきゃいけません。
その時何もできなかったとしても。
そのあと貢献できればそれでもいいんじゃないかと 
私は思っています。


長くなりましたが。
見ていただき、ありがとうございました。